昭和24年(1949)年7月5日とは、下山総裁が出勤途中で行方不明となった日である。
捜査などの資料から、この日の総裁の行動には不可解な点が多い。下山総裁を乗せた大西運転手の証言では。
東京市大田区上池上町の自宅を8時20分に総裁専用車で出発、ビュイックが御成門前まで来たとき、
下山総裁
「佐藤さんのところに寄るんだった」
と言った。
「佐藤さん」とは、後に内閣総理大臣となった佐藤栄作氏のことで、佐藤氏が国鉄の先輩であったことから懇意にしていたようである。
運転手
「引き返しましょうか?」
と聞いたが、
下山総裁
「いや、よろしい」
と下山は返答し、暫くビュイックは走っていた。
そして和田倉門前に差し掛かったとき、
下山総裁
「買物をしたいから、三越(日本橋三越本店)に行ってくれ」
と運転手に指示した。
和田倉門を右に曲がると国鉄本社(現JR東日本本社)なのであったが、三越に行くことを指示したのである。
ビュイックが東京駅北側のガードを抜ける時に
下山総裁
「白木屋(東急日本橋店)でもいい、まっすぐに行ってくれ」
と言った。
ビュイックは白木屋の角に来たが、同店はまだ開店しておらず、止む無く三越に向かった。
その三越も閉まっていて「午前9時半開店」と標示が出ていた。
運転手は次の指示を求めるように
「開店は9時半ですね」
と言ったが下山総裁は
「うん」
と短く答えただけだったので、
再び運転手は
「役所にまいりますか」
と指示を求めたが、下山はまたも、
「うん」
と答えただけだった。
運転手は国鉄本社に向かうものと考え、ビュイックを国鉄本社に向けたが、
突然
下山総裁
「神田駅にまわってくれ」
と指示した。
運転手は常盤橋を右折して神田駅西口に出て車を停めた。
「お降りになりますか」
と運転手が言うと、
下山総裁
「いや」
と動かなかったので、運転手は今度こそ国鉄本社に向かうと考え、神田駅北側を回り本石町に出て右折、新常盤橋を渡ってガードを潜った。
ところが、下山総裁は
「三菱本店へ行ってくれ」
と命じた(三菱本店とは三菱銀行のことで、当時は財閥解体命令で「千代田銀行」と称していた)。
ビュイックが国鉄本社の前を通りたとき、下山は強い調子で
「もっと速く走れ」
と言った。
9時5分頃に三菱本店に着くと下山氏は車を降り店内に入り20分程度で戻って来たが、用事等は不明である。
これは、後の警察の捜査で、総裁は銀行に入り金庫係から私金庫の鍵を受け取り、金庫室に入ったことが解った。
下山総裁
「これから行けば、丁度いいだろう」
と、座席に腰を下ろしながら言ったので、運転手は三越の開店のことだろうと察し、三越南口に車を乗り付けた。
総裁はすぐに降りようとせず4~5分物事に耽っていたが、間もなく立ち上がると
「5分間ばかり待っていてくれ」
と言い残して店内に消えた。
午前9時37分頃のことである。車内には弁当と書類を入れた手提鞄が残されていた。
これが、三越内に下山総裁が入るまでの国鉄本社前での出来事である。
総裁秘書は、毎朝8時45分ごろから玄関に立ち、総裁を迎えることを日課にしていたが、総裁が出勤時刻になっても姿を現さないので騒ぎになっていた。
下山総裁の立ち寄りそうな所には連絡を入れてはみたが、一向に手掛かりがつかめない。
午後2時頃になり、鉄道公安局長が警視総監室を訪れ状況を説明し、極秘捜査となった。
午後5時に国鉄当局は総裁行方不明の発表に踏み切った。
下山総裁を送り出した大西運転手は、まだ三越南口前に車を停めたままでラジオを聴いていた。
総裁行方不明のニュースを聞き、慌てて三越店内で店内放送を頼んだり、三越劇場を探したが、下山総裁の姿は見つからない。
大慌てで国鉄本社に電話した。下山総裁が轢死体として発見される6時間ほど前のことである。
[遺体発見]
7月6日午前0時25分、上野発松戸行の国鉄常磐線最終電車2401Mが都内足立区五反野南町の、東武鉄道との交差点ガード付近を通過中、運転手が小雨に濡れた線路上に遺体らしき物を発見。
綾瀬駅に午前0時26分に到着し、同駅助役に報告、助役は駅員2名を現場に行かせた。
現場でカンテラで照らすと、轢断された遺体が散乱しているのが確認されたため、駅員は小菅刑務所裏の詰所から助役に電話で報告、報告を受けた助役は上野保線区北千住分区長に伝え、同日午前1時5分に分区長は副分区長を伴い五反野へ向かい、荒川放水路の鉄橋を渡り現場に到着したのは午前1時半だった。
分区長は、轢断遺体を調べていたが現場には「日本国有鉄道 総裁 下山貞則」と刷られた名刺が散乱しているのを確認された。
<参考文献>
佐藤 一 著/『下山事件全研究』時事通信社
金井貴一 著/『小説 下山事件』廣済堂文庫
森 達也 著/『シモヤマ・ケース』
矢田喜美雄 著/『謀殺 下山事件』