下山総裁の轢断死体を発見したのは、松戸行きの下り最終電車である。
足立区五反野南町の、東武鉄道との交差点ガード付近を通過中、運転手が小雨に濡れた線路上に、死体らしき物を発見。
次停車駅である綾瀬駅に到着するとホームにいた助役に知らせたのである。
「おい、東武線のガードのそばに、女のマグロ(轢死体)があるぞ!」と。
線路に飛び散っている肉体の破片があまりにも白かったため、当初は女性の飛び込みらしいと判断したようである。
助役はすぐ改札係と駅手を呼んでカンテラを持たせ現場に行かせた。
カンテラで死体を探すと、肉付きのいい、裸の胴体がうつ伏せに線路のわきにあった。
現場に行った2人は小菅刑務所裏の警手詰所から助役に電話で、首と手足のない胴体がレール横に転がっていたが肌が白かったので女の死体らしいという報告をよせた。
午前1時ごろに助役は事故現場から帰った2人の報告をそのまま上野保線区北千住分区長に伝えた。分区長は副分区長を連れて徒歩で五反野へ向かった。荒川放水路の鉄橋を渡り現場に到着したのは午前1時半頃、すでに霧雨が振り出し線路は濡れていたという。
分区長らは、バラバラ死体の着衣を調べているうちに「日本国有鉄道 総裁 下山定則」の名刺が沢山現場に散乱し、そばには総裁名義の東武鉄道優待乗車券の入った定期券があるのを発見。既に下山総裁が失踪しているのはラヂオニュースで解っていたため、慌てて現場から1番近い西新井警察署に五反野南町駐在所に向かった。
五反野駐在は2人の報告を受け西新井署に報告。午前2時40分に警察官が現場到着。北千住保線区からも応援のため3人の工手が来ていた。死体は、首・胴体・右腕・左脚・右足首の5つの部分に轢断されていた。
ねずみ色の上着・白のワイシャツ・チョコレート色の靴・時計などが線路に80mに渡って散らばっており、遺留品より国鉄総裁・下山定則(49歳)と確認されるのに時間はかからなかったのである。
陽が昇るまでに轢断した車両も869貨物列車と確認された。7月6日午前0時19分に現場を通過した869貨物列車(D51蒸気機関車が牽引)により轢かれたものと断定されたのである。
この貨物列車は水戸駅で緊急停車となり実況見分が行われた。そして下山総裁の衣類の切れ端・肉片・血痕などが付着していたのが発見できた。
6日早朝に轢断現場で東京都監察医務院に勤務する八十島医師は死体の検案を行なった。結果は「自殺あるいは過失による轢死」であったが、司法解剖をすることを進言した。
当時、東京都内の司法解剖は東京大学と慶応大学の両法医学部が担当しており、中央線を境に北側が東大法医学部、南側が慶大法医学部との取り決めがあったため、轢断死体は東大法医学部に運び込まれたのである。
東大法医学部での司法解剖の結果は「死後轢断」であった。
すなわち違う場所で殺されてからレール上に運びこまれて轢断されたとうことである。
その理由としてはバラバラになった手・首・足の轢断面に生活反応が殆ど認められないこと、血液量が極端に少ないこと、発見された靴底に付着していた泥は現場の泥とは明らかに異っていること、轢断現場には下山総裁のネクタイ、めがね、ライターなどの所持品がどこからも発見されなかったこと、衣類に植物性油が多量に付着していたことなど「死後轢断=他殺」という見解を発表したのである。
警視庁では6日の轢断死体発見から本格的な捜査を開始した。
その結果、轢断されるまでの事件現場周辺では下山総裁と見られる人物が随所で目撃され総勢17名にもなったのである。いずれの目撃者も元気なく歩いていたと証言したため「自殺説」が浮上した。
特に5日午後2時から5時30分までの間に現場近くの「末広旅館」へ下山総裁らしい人物が休憩に寄ったという旅館の女将からの証言があり、その情報内容から警視庁捜査一課は自殺説を取り入れるようになった
<参考文献>
佐藤 一 著/『下山事件全研究』時事通信社
金井貴一 著/『小説 下山事件』廣済堂文庫
森 達也 著/『シモヤマ・ケース』
矢田喜美雄 著/『謀殺 下山事件』