遺体を発見したのは上野発松戸行きの国鉄常磐線最終電車であるが、轢断したのはその6分前に現場を通過したD51/869貨物列車だった。
本来なら田端操車場を午前0時2分に出発する予定であったが、8分ほど遅れたため本線を全力で突っ走ていた。
869貨物列車の機関士・機関助手・車掌は田端操車場の当直員2名に対し1時間前には起こすように託して仮眠を取ったが、当直員らが将棋に熱中して起こすのを忘れたためであった。機関助手らがD51に駆けつけたところ、ボイラーの火力は著しく低下していた。
機関助手が必死で石炭をくべた甲斐もあり、何とか8分遅れで操車場を出発することができた。連結貨車が通常繋がれる台数の半分以下(この日は全車空荷)であったのも幸いしてスピードを上げることができたようである。そして、北千住あたりで予定の通過時刻に戻すことができたが、荒川橋梁を渡り、下山総裁の死体を轢断したのである。
※同型式の貨物機関車(実際はD51-651が該当車両) pinterstより
轢断現場は丁度、国鉄常磐線と東武線とが立体交差する部分であり、カーブがかかっているといっても、当時でも機関車の前照灯で事前に確認できたはずであったが、当該D51蒸気機関車の前照灯は発電機が故障して回らなかった。
そのため予備の蓄電池式の小型前照灯に切り替えていたこともあり、満足に路面を確認できない状態であった、などり理由で下山総裁の遺体を発見することが難しかったのである。
常磐線は北千住を出て荒川鉄橋を渡ると、レールはここで大きく右にカーブする。
869貨物列車は鉄橋から400メートル先の東武伊勢崎線と交差するガード下に来たときに、運転助手は信号確認を行うため機関車から身を乗り出した。
丁度ガード下を抜けた付近であったが、レールに敷いてあるバラスが機関車の底板に当たる音を聞いそうである。それは、下山総裁を轢断した瞬間であったと思われる。
<参考文献>
佐藤 一 著/『下山事件全研究』時事通信社
金井貴一 著/『小説 下山事件』廣済堂文庫
森 達也 著/『シモヤマ・ケース』
矢田喜美雄 著/『謀殺 下山事件』